散歩・人間の知の象徴「五高記念館」。
家から歩いて行ける場所に旧制第五高等学校記念館があります。
通称「五高記念館」。
1887(明治20)年5月に設立された官立高等中学校を母体とする旧制高等学校。
日本中が近代科学を思想の根幹として、江戸期の封建的社会から脱却しようとしていました。
その九州の拠点は五高が置かれた熊本でした。
校風は熊本のゆえか「豪気朴訥」。
そして太平洋戦後間もない1949(昭和24)年に、第五高等学校は新制の熊本大学に繰り込まれました。
五高としての最後の卒業生は翌年送り出されます。
1949年に入学した新入生は、他の大学を受け直すことを余儀なくされての閉校でした。
僕は第五高等学校の卒業生ではないし、熊本大学の卒業生でもありません。
それでもこの建物を見ながら歩くときにはある種の感慨に耽ります。
創建当時から政治家や実業家を生み出してきた第五高等学校。
経済界では西村龍介・小西六写真工業社長や、ロータリーエンジンの父でありマツダの社長を務めた山本健一氏を始め多くの人物を生み出しました。
そういえば福岡の渡辺通りの名前の元となった渡邊家の、元九州電力社長・渡邉哲也氏もここの出身。
教師としては、英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や夏目漱石が有名です。
数年前のNHK大河ドラマ「いだてん」で、主人公を支えた教育者として登場した嘉納治五郎は五高の校長を務めていました。
多くの才能が学び、教え、巣立っていった五高は、名実ともに九州の知の中心地でした。
写真に撮った五高本館では文系の授業が主に行われました。
当時はプロイセン(≒ドイツ)の人文科学が盛んに取り入れられ、学生たちは戯曲「アルトハイデルベルク」に西洋のロマンを見て強く憧れたと言います。
五高などのナンバースクール旧制高校の卒業生と旧帝大の入学者数がほぼ同じだったこともあって、五高からは東大、京大へ多くの学生が進みました。
他の旧制高校も同様だったとみえて、そんな学生が集まった東京ではドイツ風の「歌声ビアホール」が流行ります。
いまもそのうちの一つが銀座の泰明小学校のすぐ横にひっそりとありますね。
ビアホール「Lorelei(ローレライ)」。
入って座るといきなり歌集が渡されます。
僕が大学生のころ、昔を懐かしむ父に連ていかれて、よくわからないドイツの歌を何曲も一緒に歌わされました。
知というのはそのような牧歌的な面もありますが、時に冷酷なこともあります。
五高記念館の東側には理科棟(化学実験場)があります。
太平洋戦争時、学生たちはここで原子爆弾の構造なども学びました。
アメリカやソ連も開発しているが日本には重水という物質がなく、それが開発の妨げになっていることなど、細かな説明がありました。
一般の学生に教えるのですから公知のことです。
いま一部の左翼勢力の方は「秘密裏に日本も開発していた」と言いますが、そんなことはない。
むしろ各国が「夢の科学技術」として開発を競っていたのが原子爆弾・原子力だったのです。
いまの半導体開発競争のようなものです。
太陽に匹敵するような大きなチカラとしての原子力への夢。
しかし日本に爆弾が落とされたことで人類が現実に引き戻されます。
人類は素晴らしいのか、愚かなのか。
そんな人類の一人として人智のありかたと我が身と社会を僕も考える、考え続ける。
時を刻み、時を経た知の殿堂を目の当たりにするというのはそういうことです。
熊本には数少ないこのような建物。
大事にしていきたいものです。